たゞかうなどゝ、夢にも、望んでゐませんよ。安穏に暮せれば、それで幸せではありませんか」
 娘なら――伝蔵は、ふと、思ふことがあるのであつた。娘には、年老いた瘋癲人の、この悲しさが、分つてくれるかも知れない。虚空に向つて、鯨の息吹のやうな、ボオ、ボオ、といふ涯のない長愁を吹きあげてゐるにすぎない暗さであつた。年老いた瘋癲人。娘の手をとり、その胸に、年老いた醜い涙の顔を隠す。娘は、年老いた瘋癲人の半白の髪をさすつてくれる。
「泣かなくとも、いゝのよ。パパ。遠い所へ、旅行しませう。南の国へ。青々と光る海。さうして、かゞやく杜の中を、歩きませう」
 娘は、年老いた瘋癲人の苦い涙を、細い指で、ふいてくれる。
 さうして、二人は、旅にでる。……
 波子と旅行にでかけよう。伝蔵は思つた。
 さうして、二人は、旅にでた。

 山峡の渓流で、鮎船にのり、二人は、無限に、鮎をたべた。波子は五匹で満腹した。大きな、爽やかな、鮎だつた。
 汽船にのり、うねりの高い初秋の海を越えて、島へ渡る。その島には、カトリックの寺院があつた。数へるほどの戸数しかない小さな漁村に、明治初年の古めかしい寺院があつた。禁令三百年
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