笑ひ、深く、心にとめたこともなかつたのだ。
 母の眼に涙を見て、波子は、ふと、気がついた。涙を見せない女。涙とは。波子は、涙の貧しさに、あつけにとられた。あの美しい母が、涙のために、なんと貧しいことだらう! あの端麗の輪廓も、涙のために、くづれてはゐない。あどけない幼さも、くづれてはゐない。涼しい眼すら、涙のために、決して曇りはしないのに。母の貧しさ! 泣く母も、なほ、美しかつた。けれども、貧しく、やせてゐた。
 波子は、母をみつめる。
「今まで、どこに、ゐましたか」
 貧しい女の声は鋭い。波子は、答へようとしない。貧しい女をみつめてゐる。その貧しさを、みつめてゐる。
「誰か、好きな人が、あるのですか!」
 貧しい女は、叫ぶ。
 波子は、答へない。
 不思議な、深い緊張が、波子の全身をしめつけてきた。一途に鋭くひきしまり、わけの分らぬ叫び声が、でようとした。好きな人! 貧しい女は、わけの分らぬことを言ふ。今、たしか、言つたのである。波子は、なにか、とらへようとした。然し、みんな、逃げて行く。一本の鞭のやうに、ひきしまるからだ。たゞ、眼だけ、大きくひらかれる。
「言つてごらん! 誰ですか
前へ 次へ
全38ページ中29ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング