ばれて、そのよびかたに、安心しきつて、身をまかしてゐる。夫とよぶ知らない男と、妻とよぶ知らない女が。
 何もかも、てんでんに、バラ/\だ。渓流の藪に鶯が啼いてゐる。茶店に、立札がある。雲がたれ、いちめんに、雪が降つてゐる。すべて、それらが、バラ/\のやうに、夫とよぶ知らない男と、妻とよぶ知らない女と、子供とよぶ知らない娘と、それが、てんでん、バラ/\に、集つてゐるだけである。……
 それにしても、あの渓流できいた鶯は、はりつめた山気すら鋭くつんざき、めざめるぐらゐ美しい一声だつた。さうして、あの雪のふる渓流も、あれは都から何里も離れない所だといふのに、人の訪れを映したことすらもない幽気にみちた色調だつた。
 だが、その鶯も、啼声の美しかつたことだけは忘れてゐないが、もはや耳には、思ひだせない。さうして、渓流の深い色も、心の底に、もう、色あせてしまつてゐた。
 たゞ、今も尚、忘れることのできないものは、旅のあひだ吹きつゞけた、あの、涯のない風であつた。からだのまはりに何物もなく、縋るべき一人の知りびともなく、着々と吹く風のみがあつた。眼をとぢれば、眼に、その風が、見えてゐた。さうして、今
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