た。
 あの色情を北アルプスで失つた方が、俺は、よつぽど、助かつた……伝蔵は、思はず、呟いた。
 何よりも、娘をかたづけることが、第一である。遠山謹厳居士に限る、彼は思つた。厭応《いやおう》なく、あの青年に押しつけてしまふに限る、と肚をきめてしまつたのだ。
 その日から、死花をめぐる相談ごとのドタン場へくると、伝蔵は一応沈黙して、何気ない風をしながら、実は、必ず波子の顔を思ひ浮べて、然し、それに就て何か考へをまとめるといふわけでもなく、たゞ、漠然と、余裕をつくることにしてゐた。さうして、
「娘が、色々と、私のことを心配して……」伝蔵は、非常に爽やかな笑顔をして、人々の顔を見廻す。「年寄の冷水だ、と、ひやかすのです。まつたく、孫のできる年で、あんまり無茶な、青年のやうな勇気にはやるのも大人げないと、だんだん思ふやうになつてきて……」
 彼はひどく好機嫌になつてきて、人の思惑に頓着なく、自分勝手な話をはじめる。さうして、その結びに、女房に泣きつかれるのは驚かないが、娘の意見といふものは、こたへるものだ、と附加へて、したり顔になる。益々機嫌よくなつて、アッハッハと、笑ふのである。

    
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