美しさは我々の時代に始めて実をむすんだ一つのうら悲しい宿命であろう。このうら悲しい美しさを私は頭から否定したいとは思わぬ。だが、これを突き破って始まるところの文学を私はより多く期待するのだ。
龍胆寺雄氏「アラッヂンのラムプ」。どんな架空な物語を書いても、作者が空想の中に生きていれば文句はない。そのとき空想は立派に作者の生活でありうる。ところがこの作品の空想の中には作者が呼吸していない。この物語の始めの方で、雲吉が沙漠の散歩から帰ってきて部屋へはいると、着物や髪の毛の中から沙漠の砂がパラパラとこぼれてくるというあたりは却々気の利いた精密さで、全篇の空想の中に作者が常にこれくらい快適に浸りきっていたならこの空想も救われたのである。だがこのほかの部分では全く空想の中に作者が浸っていないのだ。最後に空想がどうやら現実へからみついてきて作者は自己を語りはじめているのだが、この自己弁解が又極めて世俗的な鬱憤をはらしているにすぎないのはひどすぎる。
川端康成氏の「浅草祭」。この月の分は「悲願維明」と「元日のシャツ」の二つの小品で後者の方は未完。中に「彼はなにか自らの白い肌に追はれるもののやうに、
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