悲願を抱いて、浅草をさまよつてゐたのだ」という一節がある。これをとりだしてどうと云うのではないが、この中に極めて漠然と使われている悲願という言葉、この言葉が私には面白かった。すくなくともこの作者はある漠然としたものではあるが甚だ根強くのっぴきならぬ生の哀愁にかられている。いわばそれがこの作者のいう悲願であろう。そうして、この作品はいわばそののっぴきならぬ生の懊悩が、つまりは悲願とよぶところのものがこれを生み、この作品の方向を決定づけているのだろうと思われる。この作者の懊悩は私に共感できるものだった。
 いったいがこの漠然とした悲願、直接に何を祈り何を求めるという当てさえもない絶体絶命の孤独感のごときものだが、これは数十世紀の人間精神史と我々の真実の姿とのあらゆる馴れあいと葛藤を経て、虚妄と真実とがともにその真正の姿を没し去ってしまったところから誕生したものであろうか。自らの実体を掴もうとして真実の光の方へ向おうとすれば真実はもはや向いた方には見当らなくなっていたというような、或いは逆に向き直ったところの自らが、向き直ったときには虚妄の自らに化していたというような、即ちこの悲劇的な精神文
前へ 次へ
全18ページ中11ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング