化の嫡男が悲願の正体であろうと思う。それ自体を分析しても割りきれる代物ではない。そこには虚妄と真実との全てのカラクリがつくされていて、分析のメス自体がこのカラクリの魔手の中にあるからである。この漠然とした哀愁は畢竟するにその漠然とした形のまま死か生かの分岐点まで押しつめ突きつめて行くよりほかに仕方がない悲しさなのだ。その極まった分岐点で死を選ぶなら、それはそれで仕方がない。併しもし生きることを選ぶなら、(選ぶというよりもそのときには生きる力と化するのであろうが)まことに生き生きとした文学はそこから出発するのだと私は考えている。ドストエフスキーがそうだったのだ。彼の文学は悲願それ自体ではなく、それが極点に於て生きることに向き直ったところから出発したものであった。生き生きとした真に新らたな倫理はそこから誕生してくるに違いない。従而、私は悲願そのものには余り多くを期待しない。我々の時代の多くの若者がこの悲願に追われはじめている。併しその多くの人が途中で誤魔化す、極めて安易な習慣的な考察法へその人生観の方向を逃がして了う、又ある人はその極点へ押しつめぬうちに極めてこれも習慣的な自殺を企ててしま
前へ
次へ
全18ページ中12ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング