をはきちがえた見解ではあるまいか。思うに横光氏は読んで「面白い」小説の中から傑作が現れるという意味で、この面白い小説を通俗小説と称ばれたのではないかと考える。併しながら「面白さ」それ自体には通俗と純粋の区別は全くないのである。純粋さが面白さの為に通俗化するということは絶対にない。本来面白さというものは人々が軽率に嫌うほど、それ自体不純なものではないのである。作品が通俗小説であるのはこれの倫理が全く時代の常識でしかないことに由来するのであって、この意味からは通俗文学の中から純粋芸術の傑作が現れるということは完全に不可能である。
福田清人氏の「キリシタンの島」。男気のすくない南国のキリシタン島へ一夜兵隊の一行が上陸し、街を通り、天主堂でもてなしを受け、そうして翌日帰っていった。洗礼を受け、つつましく生活していた娘達が、若い男の気配だけに上気して小さな葛藤がまきおこるという話。だがこの作品では専ら人間の取扱い方法すら叙景的で、娘の葛藤も表面的な風景画に終っているのは物足りない。
阪中正夫氏の「赤鬼」。一見平々凡々のようであるが、この作品には作者の全てのものがつくされているように感じられた
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