はただの課長の最も世俗的な概念であるし、そのうえ横山属の立場からしか課長の正体をつきとめていないのは作者の勝手な依怙贔屓である。課長にとりいる才子でも主人公の横山属でもみんな常識的ないわば公式の羅列のようで生き生きと読者の魂に訴えてくるものがない。だから洋服も洋服という言葉でしかなかった。
この作品から私が考えたのは、純粋芸術と大衆文学の一つの相違点ということだった。バルザックの作品のあるものが今日では大衆文学にすぎなくなっていることのように、一時代の芸術が次の時代の通俗文学にすぎない例は数多い。というのは、その作品の生みだした新らしい倫理が次の時代では常識的な習慣的なものとなっていたからであろう。が、その作品の生れた時代から常識的であり習慣的であったという純粋芸術はない筈である。従而純粋文学と通俗文学を区分するところの一つの重大なる相違は作者の作家的懊悩が習慣の上にとまっているか、或いは習慣の埓を踏み破ろうとしているかにあると見ても差支えないと私は思う。
先般の新聞紙上で横光利一氏が今年の傑作は通俗小説の中から現れるだろうというようなことを言われているが、これは上述の通俗性の本質
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