さ」の見栄だと言うことも出来ないことではないと思う。虚妄と真実との累々たるカラクリのあとに築かれた古い習慣を正しく突き破るためには、かように習慣的な「からさ」だけでは不足すぎると私は考える。一見浅薄に見る「あまさ」もやはり正体は複雑な虚妄と真実のカラクリによって掩い隠されているのだ。探究の方向が「からさ」であることは差支えないと思うが、その「からさ」が最後の深さのものであることを希望したい。
 私の友人片山勝吉はその文学の発足のときから執拗にこの漠然たる悲願と取り組み、この漠然たる悲しさのみを極めて地道につつましく育てつづけてきた甚だ特異な作家のように考える。彼の日本文学の教養とその甚しい日本趣味とのため、人々は多く彼の懊悩の世界まで古臭いように考えがちであるが、彼の懊悩の世界は全く我々の時代まではなかったところのものである。彼の書く主人公は惚れないうちから諦めているというような、然しそんな尤もらしい恋愛事情なぞとは無関係に、もともと恐ろしい孤独感の中にいる。去年「紀元」に発表した「鋸の音貧し」という作品の中で、主人公は隣の部屋から洩れてくる愛すべき若夫婦者のなんでもない話声をきいてい
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