めないわけにいかないやうであります。
近頃唱へられてゐる長篇小説の偶然論は極めて尤もなことと思ひます。長篇小説に限らず小説にとつて新鮮な偶然ほど重大な要素もすくないやうに考へてゐるのですが、行動に型も形式もない日本人ほど新鮮で独特な偶然を持ちうる国民があるでせうか? 悒鬱な過剰な自意識はそれ自体一向に発展性がない代りに、ひとたび飛躍を与へればあらゆる可能の彼方へ飛び立つことができます。
僕の考へでは一人の男を二度同じ境遇におき同じ条件を与へても決して必ずしも同じ行為をせぬばかりでなく、まるつきり反対のことさへやりかねないと考へてゐるのです。我々は常に無数の返答、無数の可能をもつてゐます、そして、ちよつとした紙一重の気配の相違でまるつきり反対の思ひもよらない表出をとることがあつても、それは有りえないことではありません。これは日本人に限つたことではないのです。けれども行為に馴れない日本人には特にそれが可能のやうです。
ジイドはロシヤ人の愛と憎悪の激しい転換を指摘してゐますが、年がら年中内攻してゐる日本人、異体《えたい》の知れない不当な自卑にギュウギュウうなされてゐる日本人には、愛と憎
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