悪魔の一情景の如き、日本人ならではこれほど生き生きと感じ、美しく描けないのではありますまいか? 日本人は異性同志が言葉を交し合ふだけでさへ西洋人に分らない労力と複雑な計算と、さうして西洋人同志ではてんで意味もない小さな言葉のきれつぱしにも驚くべき広がりと深さをもつて官能に理性に響きを受けることがある筈です。ここには我々をああ又かとウンザリさせるところもあるでせうが、一面当然意識していい新日本的な美があるやうにも思はれます。
西洋では男女の交際にかなりの公式があり階梯があり必然性もあるやうですが、日本ときては殆んど大部が偶然にたよるほかに仕方がないやうです。行動過少といふべきか寧ろ発表過少ともいふべき日本人にとつて必然的な行動とは即ち過剰な自意識の綿々たる内攻のことであり、発表や行為は全てこれ偶然――といふのはちとヒドすぎますが、然しとにかく一々の発表や行動の直後にすぐさまなにがしの内省批判自卑の念まで懐きがちなところから推察しても、今日の日本人には単に意見を発表するといふことすら意識の必然的な流れに比べて凡そ偶発的な相当に本人自らにとつても突拍子もないことであるらしいのは残念ながら認
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