交渉を始めてゐた。
 行長は根が正直者、国を裏切り暗躍に狂奔してゐるが、陰謀はその本性ではない。よしなき戦争は罪悪だといふ単純な立前で、三国いづれの立場からもこの戦争で利得を受ける者はないのだから、いづれの思ひも同じこと、如何なる陰謀悪徳を重ねても和議には代へられぬ筈ときめてゐる。自分の一存で如何なる条約を結んでも構はぬ。本国への報告は両軍の大将が相談づくで誤魔化す限りシッポはでないし、シッポが出たら俺が死ぬ。それだけのこと。かういふ度胸をきめ、楽屋のうちをさらけだして談判にかゝつてきた。外交に異例の尻まくりの戦術、否、戦術ですらもない、全く殺気をこめ、眼は陰々とすはつて一点を動かずといふ身構へで、死者《しにもの》ぐるひにかゝつてくる。
 沈惟敬は筋の正しい国政などゝは縁のない市井の怪物、元来がギャングの親方であるから、人生の裏道で陰謀に半生の命をはりつゞけて生きてきたこの道の大先輩、行長の覚悟、尻まくり戦術は自らのふるさとで、話をすれば、行長の決意裏も表もよく分る。この男はすべてをさらけだして、全く命をはつてゐるのだと見極めをつけた。談判破裂となれば死者ぐるひで襲ひかゝるに相違ない殺気であるから、こゝは悪どく小策を弄せず、この男の苦心通りに和議をとゝのへてやる方が簡単にして上策だといふ判定を得た。それにつけても、行長が条約に譲歩の意をほのめかしてゐるのだから、徹底的に明国に有利な条約まで持つて行かうといふのが沈惟敬の肚だつた。けれども条約を結ぶに就ては日本軍は先づ釜山まで撤退すべしといふこと、並びに捕虜の朝鮮二王子を返還すべしといふこと、之は行長の一存のみでは決しかねる問題だ。朝鮮の二王子を捕へたのは清正で、事は大きくないけれども、清正の意中が難物である。
 この二ヶ条は一時的な面子《めんつ》の問題、和議のとゝのつた後では軍兵の撤退も王子の返還も面倒のいらぬことだから、急ぐことはない。つまらぬことに拘泥せず実質的な媾和条約をかせぐ方が利巧だといふ惟敬の考へ、戻つてきて、この二ヶ条は今は無理だと朝鮮側を説いたけれども、宋応昌はきゝ容れるどころか、激怒した。日本軍の釜山撤退、二王子の返還、朝鮮側では譲歩のできぬ必死の瀬戸際の大問題。オレに任せておけなどゝ大きなことを言つて出掛けて、撤退もさせぬ二王子も返還させぬ、それで媾和とは開いた口がふさがらぬ。明国の威信を汚す食は
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