せ死ぬ命が一つなら、大明を直接相手に大芝居、即刻|媾和《こうわ》を結んでしまふ。どんな国辱的な条件でも、秀吉が気付かなければいゝではないか。自分が中間に立つて誤魔化してしまふ。一文の利得もなく一条の道義もないよしなき戦争、徒なる流血の惨事ではないか。間違へば自分の命はなくなるが、無辜《むこ》の億万人が救はれる。日本六十余州にも平和がくる。明も、朝鮮も、無意味な流血から救はれるのだ。
 そこで朝鮮本営へ密使を送つて明への和平斡旋方を切りだしたが、根が正直な男であるから自分一個の思ひつめた決意だけしか分らない。外交の掛引だの、朝鮮方の心理などには頓着なく、お互に無役な血を流すのは馬鹿々々しいことではないか、我々日本の将兵は数千里の遠征などは欲してゐないし、朝鮮も明も恐らく同じことだらう。要するに戦争の結果が単に三国の疲弊を招くだけのことにすぎないのだから、どつちの顔も立つやうにして、こんな戦争は一日も早く止す方がいゝ。さうではないか。即刻明へ和平斡旋に出向いてくれ。和平の条件などは自分と明とで了解し合へばそれでいゝので、どんな条件でも構はぬ。自分が途中でスリ変へて本国へ報告してシッポがでなければ、それでいゝ、之が人道、正義と云ふものではないか、と言つて、洗ひざらひ楽屋を打開けて、単刀直入切りだした。
 楽屋を打開けたものだから、朝鮮軍は軽蔑した。彼らは日本軍に文句なしの敗戦を喫したけれども、明軍を当にしてゐる彼等、自分一個の実力評価の規準がない。自分は負けたが明軍がくれば日本などは問題外だときめてゐる。その明軍の到着がすでに近づいてゐることが分つてゐたから、至極鼻息が荒くなつてゐるところへ、行長が楽屋を打開けたから、日本軍はもはや戦意を失つてゐる、明の援軍近しときいてすでに浮足立つてゐるのだと判断した。こういふ有様の日本軍なら明の援軍を待つまでもない、俺の力でも間に合ふだらう、と唐突に気が強くなり頭から甜《な》めてきた。そこで行長の交渉に返答すらも与へず、返事の代りに突然全軍逆襲した。行長は不意をつかれて一度は崩れたが、何がさて相手は鉄砲もない朝鮮軍のことで、行長を甘く見たから一時鼻息を荒くしたといふだけのこと、坡州から援兵が駈けつけて日本軍の腰がすはると、もう駄目だ。元の木阿弥、てもなく撃退されてしまつた。
 明の大軍が愈々近づく。之ぞ目指す大敵、将星一堂に会して軍略
前へ 次へ
全58ページ中39ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング