憎しみと蔑みは骨髄に徹してゐた。たま/\淀君の裾に縋つて外征阻止をはかつたときいたから、如水の軽蔑は激発して、彼が不当に好戦意慾に憑かれたのもさういふところに原因のひとつがあつた。
だが、この遠征には、秀吉も知らぬ、家康も知らぬ、如水はもとよりのこと、三成すらも気づかなかつた奇怪な陥穽があつたのである。
二
信長は生来の性根が唯我独尊、もとより神仏を信ぜず、自分を常に他と対等の上に置く独裁型の君主であつたが、晩年は別して傲慢になつた。
秀吉が信長の命を受けて中国征伐に出発のとき、中国平定後は之をお前にやるから、と言はれて、どう致しまして、中国などは他の諸将に分与の程を願ひませう。その代り、中国征伐のついでに九州も平らげてしまふから、九州の年貢の上りを一年分だけ褒美に頂戴致したい、之を腰にぶらさげて朝鮮と明を退治してきます、と言つて、信長を笑はせた。秀吉の出放題の壮語にも常に主人の気持をそらさぬ用意が秘められてをり、信長の意中を知る秀吉は巧みに之を利用して信長の哄笑を誘つたのだが、やがてそれが秀吉自身の心になつてしまふのだつた。
秀吉は九州征伐の計画中には同時に朝鮮遠征の計画をも合せ含めて、対馬の領主|宗義調《そうよししげ》に徴状を発し、如水や安国寺|恵瓊《えけい》に向つて、九州の次は朝鮮、その朝鮮を案内に立てゝ大明征伐が俺のスゴロクの上りだからお前達も用意しておけ、と言つて痩せた肩を怒らせてゐたといふ。
ところが、九州が平定する。すると秀吉は忘れてゐない。さつそく宗義調に命じて、平和的に朝貢するやう朝鮮にかけあへ、と言つてきた。宗は秀吉の気まぐれで、九州征伐余勢の気焔だらうと考へ、本心だとは思ふことができないから、なんの朝鮮如き、殿下の御威光ならば平蜘蛛《ひらぐも》の如く足下にひれふすでございませう、と良い加減なお世辞を言つて秀吉を喜ばせておいた。
だが、秀吉は人が無理だといふことを最もやる気になつてゐた。なぜなら、他人にはやれないことが自分にだけは出来るのだし、又、それを歴史上に残してみせるといふ増上慢にとり憑れてしまつたからだ。この増上慢の根柢には科学性が欠けてゐた。彼はさしたる用意もなく、日本平定の余勢だけで大明遠征にとりかゝつた。人には出来ぬ、然し俺には出来るといふ信念だけがその根柢であつたから、彼に向つて直接苦言を呈する手段が
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