Bそのとき二十六だつた。七月頃であつた。そしてその月に文藝春秋へ小説を書かされ、それ以来、新進作家で、私の軽率なウヌボレは二十七の年齢にも、つゞいてゐた。そのころ、春陽堂から「文科」といふ半職業的な同人雑誌がでた。牧野信一が親分格で、小林秀雄、嘉村礒多、河上徹太郎、中島健蔵、私などが同人で、原稿料は一枚五十銭ぐらゐであつたと思ふ。五十銭の原稿料でも、原稿料のでる雑誌などは、大いに珍らしかつたほど、不景気な時代であつた。五冊ほどで、つぶれた。私は「竹藪の家」といふのを連載した。
 この同人が行きつけの酒場があつた。ウヰンザアといふ店で、青山二郎が店内装飾をしたゆかりで、青山二郎は「文科」の表紙を書き、同人のやうなものでもあつたせゐらしい。青山二郎は身代を飲みつぶす直前で、彼だけはシャンパンを飲みあかしたり、大いに景気がよかつたが、他の我々は大いに貧乏であつた。私は牧野信一、河上徹太郎、中島健蔵と飲むことが多く、昔の同人雑誌の人達とも連立つて飲むことが多かつた。私が酒を飲みだしたのは牧野信一と知つてからで、私の処女作は「木枯の酒倉から」といふノンダクレの手記だけれども、実は当時は一滴も酒を
前へ 次へ
全39ページ中7ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング