ゥける人影に、とつぜん胸がしめつけられ、息がつまつて、立ちすくむ。隣の男女の話声の、よくきけば凡そ似つかぬ女の声が、始めてきこえた一瞬だけは矢田津世子の声にきこえてしまふ。
 私は女給と泊り歩いてゐる私が、矢田津世子への復讐であるやうな心はミヂンもなかつた。私は今、すぐこの足で、矢田津世子を訪ねて、結婚しませう、と言へば、結婚することもできるのだつた。それは疑ふべからざることで、そのことだけでは、一とかけの疑念も不安もなかつたのだ。もとより、憎む時間はあつた。然し、私があの人の影におびえて立ちすくむとき、私自身の恐怖の中には、あの人に苦痛と恥辱を与へたくない思ひやりが常にこめられてゐたのだ。
 同時に私はWを憎んでもゐなかつた。矢田津世子とW。矢田津世子と私。私の心には、この二つを対比し、対立させる考へ方が欠けてゐるか、或ひは非常に稀薄であつた。矢田津世子とW。私はそれを考へる。最も多く考へた。然し、矢田津世子と私、といふ立場に対立させて考へてはゐなかつた。つまり、同一線上に二つを並べてゐなかつたのだ。
 私が矢田津世子と結婚する。すると、むしろ、私達は、彼女とWにハッキリ対立してしま
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