コチョイで、出鱈目だつたが、共産党の地下運動にはカブトをぬぐ性質に相違なく、五十銭寄附したけれども、あとは降参、逃げだしたと言つてゐた。モグることができないタチであつた。
私が旅館でふと思ふのは、矢田津世子もWとこんなところへ来るのだらうな、といふことだつた。尤も、我々の旅館よりは高級であるに相違ない。待合であるかも知れぬ。尚それよりも怖れたのは、この旅先で、矢田津世子とWの姿を見かけないか、といふことだつた。私と女が見られることへの怖れではなかつた。純一に、彼等の姿を見かけることの、その事実を確めさせられることの恐怖と苦痛であつた。
私はそのころ、路上でふと立ちすくむことがあつた。胸は唐突にしめつけられ、呼吸が一瞬とまつてゐる。私はふりむいて一目散に逃げる衝動にかられてゐるのだ。私は街角を怖れた。又、街角から曲つて出てくる人を怖れた。私は矢田津世子の幻覚におびえてゐたのだ。よく見れば似つかぬ女が、見た瞬間には矢田津世子に思はれ、私は屡々路上に立ちすくんでゐたのであつた。
別して私は温泉で、矢田津世子とWの幻覚になやまされた。こんな安宿に彼等が泊る筈はないと信じながら、廊下で見
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