ツてくれますやうに。せめて、この一言のみが、掻き消え失せてくれないやうに、と。
 私は然し、私の必死の希願に就て、自ら一語も発することができなかつた。私はたゞ、幸ひに残り得た一語のいのちを胸にだきしめてゐたのである。あゝ、これは残さう。これは面白い言葉ぢやよ、とそれに答へた河田の言葉を私は今も忘れることができないほどである。
 私はすでにその前に、矢田さんと結婚したいといふことを母に言つた。母も即座にうなづいてゐたが、やがて日数へて、いつ結婚するか、といふ。私は胸をしめつけられて、返事ができず、やうやく声がでるやうになると、もう厭なんだ、やめたんだ、と答へて席を立つた。
 然し、三日にあげず手紙が来てゐるのだから、母は私の言葉を痴話喧嘩ぐらゐにしか受けとらず、あるとき親戚の者がきたとき、私を指して、今度、矢田津世子と結婚するのだ、と言ふ。嘘だ! 結婚しないと言つてゐるのに! 私は唐突に叫んだ。叫ぶことが、無我夢中であつた。私の血は逆流してゐた。私は母の淋しい顔を思ひだす。
 その頃だつた。例の十七の娘が、神経衰弱の如くになつて、足もとをフラ/\させ、私を訪ねてきて、酒を飲みに行かうよ、
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