オた言葉があつた。私はその言葉を忘れたが、それは恋人に対してのみ用ひる種類の甘つたるい言葉であつた。
 校正の日、同人全部印刷所へつめてゐたが、まさしくその日は日曜であり、矢田津世子のみ、真杉静枝か河田かに校正をたのみ、姿を見せてゐなかつた。その日曜が矢田津世子にどういふ日かは、あらゆる同人が知つてゐたのだ。
 座談会の例の一言に、河田だか、田村だか、井上だか、ふきだして、これは凄いね、このまゝケヅらず載せたものかね、と見廻すと、真杉静枝が間髪を容れず、ケヅることないわ、ホントにさう言つたのですもの、と叫んだ。それは低いが、強烈な語気で、私はその後ずゐぶん真杉さんとはおつきあひしたが、このやうな激しい語気はほかにきいたことがない。深い憎しみが、こめられてゐた。
 私は然し、わが身の如くに、切なかつたのだ。私が憎まれてゐるが如くに。私は矢田津世子をあはれみ、真杉静枝をむしろ咒つた。同時に真杉静枝に内心深く感謝したのは、私も切に、この言葉のケヅられざらんことを乞ひ、祈つてゐたから。
 その一言は、私にとつては、絶望の中の灯であつたのだ。悲しい願ひがあるものだ。この一言が地上に形をとゞめて残
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