イ甚しい老婆で、不運つづき、気の毒な人だと思い、僕は腹が立たなかった。いいえ辰夫は全快しているのですよなどとでも言うものなら、実に深刻に怯えきって僕をみつめ、こいつも気違いだ、と疑ぐりだすから、ヤア、それはどうもお気の毒でした、では本日は之まで、と戻ってくる。
檻の中の辰夫は家族の愛情を空想せずには生きられぬ。僕も之を察していたので、辰夫の夢をくずしてはならぬ、と思い、用があって昨日は母に会えなかった、と毎日同じ嘘をつく。之が嘘だということを辰夫もやがて気付いたが、彼自身とてこの夢をくずしては破滅だから、そう、と一言頷くだけ、強いて訊ねることはなかった。けれども辰夫の身にすれば、家族の愛、これだけが唯一の夢。僕のそぶりから家族の冷めたさをさとるにつけて、彼の心は一そう激しく母の愛を祈りはじめる。はては、僕が例の如く昨日も用で君の家へ行けなかったと嘘をつくたびに、不器用にヘタな嘘をつきたもうな、という顔をし、君はまだ人生の深所が分らぬから母の表面の表現に瞞著されているが、母は自分を愛している、ただ四囲の情勢からその表現が出来ないだけだ、という意味のことをそれとなくほのめかそうとする。辰
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