上皇は身ぶるひがする。すると、もはや、暫く何も分らなかつた。彼女は祈つてゐた。然し、より多く、決意してゐた。それは彼女の肉体の決意であつた。
あの人ならば。なぜなら、彼の魂は高く、すぐれてゐた。そして、識見は深遠で、俗なるものと離れてゐた。
だが、何よりも、彼は天智の皇孫だつた。臣下ではなく、王だつた。それを思ふと、すでに神に許された如く、彼女の女の肉体はいつも身ぶるひするのであつた。
★
宝字五年、光明太后の一周忌に当つてゐたので、八月に、上皇は天皇をつれて薬師寺に礼拝、押勝の婿の藤原|御楯《みたて》の邸に廻つて、酒宴があつた。
忌を終り、十月に、保良《ほら》宮に行幸した。天皇も同行し、道鏡も随行した。押勝は都に残つた。
すでに上皇の肉体は決意によつて、みたされてゐた。上皇の保良宮の滞在は、病気の臥床の滞在だつた。道鏡のみが枕頭にあり、日夜を離れず、修法し、薬をねり、看病した。そして上皇は全快した。彼女の心はみたされたから。長い決意がみたされてゐたから。
上皇はわづかばかりの旅寝の日数のうちに、世の移り変りの激しさに驚くのだ。それは冬雲の走る空の姿
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