天皇だつた。さういふことが分るのは、押勝と彼女の間に距離が生れてきたからであり、そして彼女は距離をおいて眺める心も失つてゐた我身の拙さに気がついた。
 上皇は家に就て考へる。いや、家の虫が、我身に就て考へるのだ。彼女は押勝を考へる。臣下と、つまり、たゞの男と、どうしてこんな悲しいことになつたのだらう。我身の拙さ、切なさに堪へがたかつたが、その肉体のいぢらしさ、わが慾念のいとしさに、たまぎる思ひがするのであつた。
 彼女は押勝がいやらしかつた。一時に興ざめた思ひであつた。我身のすべての汚らはしさも、押勝一人にかゝつて見えた。押勝はたゞ汚さが全てのやうに思はれた。
 上皇は道鏡に就て考へる。静かな夜も、ひつそりと人気の死んだ昼ざかりにも。彼女は強ひて、その肉体は思ひだすまいとするのであつた。そして、実際、その肉体を思はずに、道鏡に就て考へてゐることがあつた。その識見の深さに就て。その魂の高さに就て。その梵唄の哀切と荘厳に就て。その単純な心に就て。さういふ時には、時々、深く息を吸ひ、そして大きく吐きだすやうな静かな澄んだ心があつた。けれども思ひは、たゞそれだけでは終らなかつた。そして最後に、
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