筑紫に起つた痘瘡が都まで流行してきた。天平九年のことであつた。加茂川のほとり、城門の外は言ふまでもなく、都大路も投げすてられた屍体によつて臭かつた。藤原の四兄弟も、一時に病没したのである。
 藤原四家の子弟たちはまだ官暦が浅かつたから、亡父の枢機につき得なかつた。橘諸兄が大臣となり、吉備真備《きびのまきび》が重用せられたのも、そのためであつた。安倍、石川、大伴、巨勢《こせ》ら往昔名門の子弟たちも然るべき地位にすゝみ、さしもの藤原一門も一時朝政の枢機から離れざるを得なかつた。のみならず、式家の長子|広嗣《ひろつぐ》はその妻を玄※[#「日+方」、第3水準1−85−13]《げんぼう》に犯され、激怒のあまり反乱を起して誅せられ、その一族に朝敵の汚名すらも蒙つてゐた。
 もとより朝廷と藤原氏は鎌足以来光明皇后に至るまで特別の関係をもち、その勢力の恢復も時間の問題ではあつた。
 先づ豊成が右大臣となり、その弟の押勝が紫微中台の長官となつた。彼等は四家のうち、長男武智麻呂の南家の出であり、その年齢も特に長じて、五十をすぎてゐた。豊成の栄達は自然であつたが、押勝は破格であつた。その栄達にあきたらず
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