丹の絵を祀つて拝んでゐる所へ役人が踏みこんだので、信者が怒つて代官を殺したといふのであるが、このいきさつが「高来郡一揆之記」によると詳細を極め、有馬村の角蔵三吉といふ両名の者が殉教した父親の首と切支丹の絵を飾り村民を集めて拝んでゐるといふ事を十月廿日に至つて松倉藩の目付、白石市郎右衛門が嗅ぎつけ、翌廿一日代官本間九郎右衛門と林兵左衛門を有馬村へ遣はし、又諸村の代官を残らず支配の村へ配置、廿四日の晩景に至つて松田兵右衛門といふ物頭が兵八名足軽廿人引きつれて二艘の船で出発、亥《い》の刻《こく》に有馬浦へ上陸、角蔵三吉其他男女十六名を摘め取り島原へ連行したが、北岡といふ所でこの者共を船に積込んでゐると、信者二百余名が跡を追ふて暇乞ひにやつて来た。
御法度にも拘らず重ね/\不届きな次第といふので下知して暇乞の連中を打擲《ちょうちゃく》させたが、打たれると却つて悦ぶ始末で手がつけられない。
漸く十六名の者を島原へ連行して、暫く牢舎の後斬首した。その後、この事件の跡見分として甲斐野半之助といふ者が一名の代官と共に有家村東川へつき庄屋|源之丞《げんのじょう》を案内に立てゝ北有馬へ船を寄せると、突然村民が鉄砲と礫を打ちかけて来て負傷し、辛くも遁げ帰つた。
ところが、深江村の佐治木佐右衛門といふ者が尚も藁屋に切支丹の絵を祀り村民を集めて拝んでゐるといふので、代官林兵左衛門が踏込み、絵を火にくべて立去ると、すぐそのあとへ天草と加津佐から四五十人の者が参拝に来てこのことを聞き、代官のあとを追つかけて、遂に林兵左衛門を殺した、といふのである。
(下)
以上が一揆の発端であるが、之をきつかけにして諸村に暴徒が蜂起した。各地に代官を追ひ廻し、生捕つて責殺《せめころ》し、一揆に与《くみ》せぬ者の家に放火し、仏寺を破り、やがて合流して島原城へ押寄せるのであるが、この記録のうちで最も生々しく活写されてゐるのはこの部分で、各山野に叫喚をあげて代官を追ひ廻す有様は手にとるやうである。
この生々しい記述から判じて、この筆者は原城籠城はとにかく、尠くとも一揆の当初は動乱について共に走つてゐた一人ではないかといふ想像が不可能ではない。
一揆の一味ではないにしても、とにかく一揆の村の住民の一人かとも思はれ、それも天草の住民ではなく、島原半島の住民であらうといふ想像がしてみたい。
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