は成りがたいものであつた。呉喜大臣云々といふ書出しからして、これはいはゆる講談本と同種であり、恰度僕が長崎へ出発の数日前大井広介氏が送つてくれた「天草騒動」といふ本、これは早稲田出版部の「近世実録全書」といふ中に収められてゐるものだが、題は違ふが内容は同一物のやうに思はれた。尤も僕は「金花傾嵐抄」を甚だ簡単に拾ひ読みしたゞけで、照し合せたわけではないから、正確に同一物だとは言へないが、多分同一物だらうと思つた。

 これによると一揆鎮定の主役であり花形の松平伊豆守が作戦下手の愚劣な風に書かれてゐて、そのあたり目先が変つてゐるけれども、結局講談本でしかなく、一揆側から出たかも知れぬといふ想像は、ちと、うがちすぎてゐるやうだ。
 僕が一種みつけたといふ、やゝそれらしい記録といふのは、この本のことではない。

       (中)

 その本は、「高来郡一揆之記」といふ。上中下を一冊にまとめた写本である。尤も同じ図書館に「南高来郡一揆之記」といつて南の一字加はつた写本もあり、之は上中下三冊になつてゐるが、内容は同じ物で、前者の方が誤写や脱字が尠《すくな》いやうに思はれた。
 この本の筆者は判らない。日附もない。本文以外に、一字の奥書もないのである。
 僕は始め、山田右衛門作がひそかに遺した記録ではあるまいかと、夢のやうなことを考へた程であつた。
 とにかく、然し、この本は一揆に関係深く同時に教養ある人の手になるものに相違ない節々がある。
 元来日本人の記録は、日時とか場所が曖昧で記述に具体性が乏しく、その点日本人には珍しい写実的な記録を残してゐる新井白石の如き人ですら、彼の「西洋紀聞」を一読して直にヨワン・シローテの死んだ年号を判ずることは難しい。シローテと長助は、長助が自首した年の翌年に死んだのだが、「西洋紀聞」の記事は自首の年に死んだやうにとられ易い曖昧な書方である。姉崎博士がシローテ死亡の年号を一年早く書かれてゐるのも「西洋紀聞」のあの文章では無理ならぬことであると頷かれる。

 この点「高来郡一揆之記」は凡そ異例の精密さを持ち、僕が山田右衛門作の遺著かと夢のやうなことまで考へたといふのも、尠くともパアデレに就て西洋の学問を学んだことのある切支丹の筆かとも思はせるだけの甚しく具体性に富む記述のせゐに外ならなかつた。

 一例をあげれば、一揆の発端は有馬村の村民が切支
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