島原一揆異聞
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)甲斐守輝綱《かいのかみてるつな》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)松平|伊豆守《いずのかみ》
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)重ね/\
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(上)
島原の乱に就て、幕府方の文献はかなり多く残つてゐる。島原藩士北川重喜の「原城紀事」は最も有名であり、この外に城攻めの上使松平|伊豆守《いずのかみ》の子|甲斐守輝綱《かいのかみてるつな》の「島原天草日記」を始め諸藩に記録が残つてゐるが、いづれも城攻めの側の記録であつて、一揆側の記録といふものはない。
尤も、一揆三万七千余人すべてが殺されて、有馬、有家、口之津、加津佐、堂崎、布津等の村々は住民全滅、現在の村民はその後の移住者の子孫であるから、一揆側の記録といふものが有り得ない道理であるが、裏切つて命拾ひした一揆側の将山田右衛門作や脱走の落武者もいくらか有つて、現に右衛門作の描いた宗教画は残つてゐる程だから、あながち記録がないとも言ひ切れまい。
籠城兵士の筆ではなくとも、一揆に同情しながら加担しなかつた村民や切支丹《キリシタン》の遺した記録はないか。
一揆の当時大村の牢舎に縛られてゐたポルトガルの船長デュアルテ・コレアの記録はパジェスも引用して甚だ著名であるばかりでなく、恐らく唯一の切支丹側の記録であるが、切支丹側唯一の記録とは言ひながら、今日学者がこの記録を最も価値ある資料のやうに見てゐるのは、果して当を得てゐるか。かなりに疑問があると思ふ。
第一コレアは自分の目で見たわけではない。一揆の時は大村の牢舎にゐたのであるから、人の話を書きとめたもので、そのことだけでも割引して読まなければなるまいと思ふ。
僕は今度「島原の乱」を書くことになつて、一揆側の記録がひとつぐらゐはないものかといふ儚い希望をもちながら、長崎や島原半島や天草を歩き廻つた。
さうして、長崎図書館で、やゝそれらしい写本を一種読むことができた。
この図書館の自慢の蔵本に「金花傾嵐抄」といふものがある。どうも一揆側から出たらしい内容のものだといふ話であり、籠城軍の兵糧欠乏が細々《こまごま》と描かれてゐるといふ話なのである。
けれども卒読したところ甚だしく俗書であつて、到底資料と
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