といふのは、話が天草のことになると記述が余程曖昧になるからで、又、原城包囲の記述では詳細精密でありながら「原城紀事」や「天草日記」にある攻城軍と籠城軍の取交した種々の通信などの正確な記事を欠いてゐる。之に反して、一揆の秘密の廻文など他本にない記録を載せてゐるのは、どうしても一揆側の事情に多く通じた人の記述としか思はれぬのである。
 この記録で最も注目すべき点は一揆には二つの異なつた徒党があつたことを明《あきらか》にしてゐる点で一つは天草四郎を天人に担ぎあげて切支丹を道具に事を起さうといふ浪人共の陰謀、これは主として天草に根を張り、島原方面へも働きかけてゐたけれども、然し島原の一揆はこの陰謀とは無関係に、農民によつて爆発した。爆発して後、農民だけでは収まりがつかなくなつて、天草へ使者を送り、四郎一派に助力を求めたのである。
 即ち、南高来郡の諸村に蜂起した農民は合流して島原城を攻撃したが戦果なく、いつたん有馬へ退いて評議した。

 その時、有馬の庄屋半左衛門といふ者が、いつたん異国へ逃れ、時節を見て日本へ帰りたいと提議すると、口之津の長左衛門といふ者が之に答へて「ひとたび異国へ渡りては人生五十年歳月人を待たず生きて再び日本を見ること期すべからず」――一揆を起しはしたものゝ、よるべない彼等の心事思ひやられる言を洩らして、近頃大矢野四郎太夫は天使だといふ噂があるから、あの人に使者を立て、大将に頼み、一揆を起さうではないかと言ひだした。
 その時四郎は大矢野宮津といふ所を徘徊し、七百人程の信者を集めて、切支丹の教を説いてゐたが、そこへ使者がでかけて行つた。

 すると四郎の答へるには、一揆の人すべてが切支丹になるといふ誓状を添へてくるなら頼みに応じようと言ふので、いつたん使者は立帰り、誓状をつくつて出直して来て、四郎を大将にいたゞくことになつたのである。
 かうして一揆は四郎の指揮に従ひ十二月一日原の廃城に小屋がけて籠城ときまつたのだが、原城包囲の記述も亦精密であるとはいへ、この記録の長所はそれではない。
 とまれ、一揆側から出た記録ではないにしても、多分、一揆の村の住民の手になつた記録であるに相違ない。僕は長崎図書館へ通ひ、僕の外には一人の閲覧者もゐない特別室で毎日この本を写しながらいつとなく、さう思ひ込むやうになつてゐた。



底本:「坂口安吾全集 03」筑摩書房
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