である。すくなくとも、前者の答案を志す場合には、これ以上に完成された手法の妙を示すことは難しい。読者の如何やうに意地の悪い近代的感覚によつても、この作品に不安定とか、不合理とか、不燃焼といふものを見出すことは不可能であらう。この手法、この形式は、中村君の創作したもので、その功績はたゝへらるべきものでなければならぬ。
特に、私は、中村君がこの材料に製作欲をうごかされた抑々《そもそも》の始めから知つてをり、資料の蒐集に、実地調査に、材料の整理に並々ならぬ苦心と年月を費したことを熟知するので、今、この独特の形式の創案によつて、却々《なかなか》、小説とは為しにくい資料を充分以上に活かし得た成果に対して、深甚の敬意を払ひたい。あらゆる歴史文学がこの形式で、といふことは言ふまでもなく無理であるが、この材料がこの形式をもとめたことは、やゝ、絶対にちかい。中村君の才腕と勘の良さに驚くのである。
我々の文学史の伝説によれば、昔、ある作家は、小説を読んで感動し、「嘘だ! 嘘だ!」と叫びながら、涙をポロ/\流してゐたといふ。
私は、このやうな「嘘」に対して、我々が生来敏感にすぎ、涙を流すことを恥ぢ惜
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