「おかしいですとも。これなぞは難解です」
 こう云って一冊の岩波文庫をとりだした。受け取ってみると、北村透谷だった。
「学歴は?」
「中学校中退です。ワタクシは、本はよく読んだものです。しかし、近年は読みません」
「読んでるじゃありませんか」
 彼は答えなかった。疲れているらしい。
「何票ぐらい取れると思いますか」
 ときいたが、チラと陰鬱な眼をそらしただけで、これにも返事をしなかった。彼の本心をのぞかせたような陰鬱な目。
「これが本音だ!」
 寒吉はその日を自分の胸にたたんだ。その他の言葉は、みんな芝居だ。ワタクシという無理でキュウクツな言葉のように。
「要するに、裏に何かがある」それを掴んでみせるぞと寒吉は決意をかためた。

          ★

 次の休みの日、寒吉は早朝から待ちかまえて、三高吉太郎のトラックをつけた。どこで何をするか逐一見届けるつもりで、部長を拝み倒して社の自動車を一台貸してもらったのである。どこで何をするか。誰に会うか。何が起るか。彼は部長に笑われてきたのだ。
「裏に何かがあるッて、何がある積りだい?」
「たとえば、あるいは密輸。あるいは国際スパイ……」

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