いやうな曇天だつた。どすぐろい雲が海へ低く落ちてゐるのだ。もちろん佐渡は見えないし、落ちこめた雲にせばめられて、余りにも小さい荒海だつた。まるで絶望の苦痛をみせた小さなどす黒い海、暗い沖にも高いうねりがつづいてゐるし、白い牙がそんな奥手の暗い沖にもちらめくのだつた。磯を歩くたつた一つの人影があつた。それが当太郎であることは、四五町の距離があつたが、すぐに分つた。
 怒濤の音が間断なしに地響きをうつて鳴りつづくので、恐らく狂人の絶叫も一町の遠さまではとどくまいと思はれた。二人は自然に足並を速めたが、絶えず叫びたいとする衝動のせつなさのために、まさ子の足は次第に早さが加はるのだつた。足の速まるにつれて、まさ子の瞼には涙が滲んできた。たうとう堪まらなくなつて、まさ子はひとり駈けだした。お兄さんといふ小さな必死の呟きが、顔ごと吹きちぎつてしまふやうな荒々しい潮風に鋭くさらはれたのを境ひにして、跳ねかへつて砂上に置き残された足駄には見向かうともせず、一方の足駄は夢中のうちに激しくあとへ脱ぎのこしておいて、跣足《はだし》となつてせつなげに走りはじめていつた。まだ充分に三四町の距離はあつたのだ。
 
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