ほど、当太郎を思ひだすことが遅れたのは、その場所に音がなかつたからであつた。見れば当太郎はゐないのだ。寝床はもぬけのからであつた。
藪小路当太郎は忍が港の曖昧屋でカクテルシェーカを振つてゐた頃、繁々とその店を訪れた常連の一人であつた。草吉も亦さうだつた。二人はその店で知りあつたのだ。当太郎は草吉よりも五つ年少の二十五歳といふ若者だつた。
「いすらえる」といふその酒場は毛唐と日本人と半々ぐらゐの常客があつたが、港でも場末の店の通例で、毛唐の質は至つてよろしくない。その大部分は印度、露西亜、ヒリッピン、支那人なぞの行商人や下級社員で、白人の方は飛入りの船員は別として、露店商人とか自称音楽教師、乃至は外国語個人教授なぞといふ看板をぶらさげた怪しげな裏道商売のてあひであつたが、然しこのてあひに限つて、目と鼻のどんな近い四ツ角からでも必ず自動車をのりつけてくる、「こんばんは、お花しやん」なぞと呟きながら、いやに重つ苦しい面魂に、むつとする安香水の匂ひをプンプン発散させながら這入つてくるのが普通であつた。
かういふ店へ、藪小路当太郎は誰に誘はれもせず、一人ぼつちで舞ひこんできた。それから何んべ
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