言ふ気持も浮かばなかつたし、人々の話も夢の彼方のやうにしか聞えてこないのであつた。
 草吉は大森海岸の方へ歩きだした。風の死んだ、然し冷えきつた冬空に、月が上つてゐるのだつた。当太郎は草吉の歩く方についてきた。海は満潮であつた。荒いうねりが岩壁にくだけてゐたが、沖は暗く、静かだつた。堪えがたく冷めたい巨大な潮風が吹き渡り、澄みきつた月光が、静かに流れてゐるのだつた。
「みんなくされ縁なんだ」
 当太郎は突然小さく呟いた。
「俺が生きてゐることまで、くされ縁だつたのだ……」
 彼は凍つた甃《いしだたみ》の上へ坐るやうに腰をおろした。さうしてそこへうづくまつた。泣いてゐたのかも知れなかつた。長いあひだ、微動する気配もなかつた。

[#7字下げ]三[#「三」は中見出し]

 それから数日の後だつた。当太郎の家族から、草吉へ宛てて、長文の電報がきた。当太郎のことで尽力願ひたいことがあるから御足労乞ふといふやうなものだつた。
 出向いてみると、母親ではなく、妹のまさ子が応待にあらはれた。まさ子は静かな微笑を浮かべつづけてゐた。まるで長閑《のどか》な世間話を語りだすときのやうな、暗影のない顔付だつ
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