あげて顔にあて、はりさけるやうに泣きだした。重い無言の時間が来た。然し二人の男達は立ち去らうとして静かな身動きを起した。するとまさ子は袂に顔を押へた両手のうちから、片手だけを取り離して草吉の袂を押へた。
「お兄さんをとめて下さい。悪い結果になることが分つてるんです。普通の状態ぢやないんです。今がいつと危険な時なんです。お願ひですから、行かせないで下さい!」
「大丈夫なんだよ。心配はいらないのだ」
と、草吉の代りに、当太郎は再び顔をあからめて呟いた。
すると、隣室の襖の陰から、まさ子のそれに甚しく相似の極めてヒステリックな中年婦人の声が響いてきた。
「行かせなさいよ! どこへでも! 母アさんを置いて行けるやうなら、どこへでも行かせなさい! とめるんぢやないよ、まさ子、ああ、とめるんぢやないとも……」
その声は終らうとして涙ぐんだ。一瞬ひきしまつた怖ろしい沈黙がきた。当太郎の蒼白な顔に突然かすかな紅潮がさした。彼はちやうど全身の力をふりしぼつて叫ばうとする小犬のやうに首をのばした。さうして、見えない奥手の気配に向つて鋭く叫んだ。
「母アさん! 大丈夫なんだよ! 心配することはないんだ
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