なかったのであろう。
水鳥亭の門前で、彼の落ちついた足どりがふと止まった。かつて物に動じたことのない哲人の足の律動を止めたものは何であったか? それは門の表札であった。
「水鳥亭山月。水鳥亭山月」
二度朗読をくり返して歩きだした。そして、歩きながら、また呟いた。
「水鳥亭山月。フム。浪曲師の別荘か」
また呟いた。
「浪曲師別荘。浪曲師別荘」
塀ぎわで畑の世話をしてた亮作は、ひそかにこれを見、これを聞いていたのである。そして息づまるほどの怖れとも驚きともつかぬものに襲われたのであった。
終戦から、もう数年すぎていた。品物もいろいろと出まわるようになっていた。豚の食物が人間に配給されて、それすらも一ヵ月余も欠配するような時世はどうやら忘れられていた。自分の畑の物をこよなき美味として珍重した時世もすぎていた。金をだせば肉もある、砂糖もある、外国のチーズもある、スコッチウイスキーすらも買うことができる。数年前には一匹のイワシすらも仰ぎ見る貴重品であったのに、伊東の漁師街ではアジやサバの干物なら野良犬すらも見向きもしなくなっていたし、温泉街では一箸つけたばかりの伊勢エビ料理がハキダメへ
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