やハンゴーやナベや裁縫の道具など、日用品一式を背負って歩いているためで、何も知らない旅行者が彼らを登山家に見立ててもフシギでないほどハイカラな住人もいるのである。
 もと中学教師のジイサンは皆にオヤジとよばれていたが、現役の中学教師に見立てることができる程度に精気があって、また威厳があったのである。その威厳は主として彼の鼻ヒゲと、冥想的な眼光によるのであるが、充分の栄養によって保たれているに相違ない皮膚のツヤツヤした精気がなければ、威厳の半ばも失われてしまうかも知れない。
 彼は孤独と逍遥を愛している様子であった。日用品一式を肩にかけて、職業上の目的とはなんの関係もないらしい静かな落ちついた足どりで街々を歩いているが、たまたま路上に働く人夫を一見れば、
「道路拡張。道路拡張」
 と、呟くのである。
 また、路傍にわく温泉を見れば、
「温泉湧出。温泉湧出」
 と呟くのである。
 その彼が、たまたま水鳥亭の前を通りかかった。彼がここを通るのはこれがはじめてであったが、彼の落ちついた逍遥も全然職業に無関係というわけではないらしく、田園の中にポツンと孤立した水鳥亭前の小道なぞは今まで歩く機会が
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