月がかかっていた。
「水鳥亭山月。ウム。これだ」
 そこで、竹をきり、ナイフで文字をほりこんで、表札をつくった。

          ★

 伊東周辺の山々には戦争中敵の上陸にそなえて掘られた無数の穴があった。それは防空壕とちがい、陸戦用のものであるから、部隊とともに、戦車もトラックもひそむことができるほどの広い穴である。
 その穴の市街地に最も近い一ツが乞食の巣になった。伊東では畑の中に温泉のわいているところもあるし、旅館も、漁師街も、乞食の食用に堪えるものをフンダンに捨てているから、ここは乞食と野良犬の天国であった。上野の地下道の住人でこれを聞き伝えた一部隊の移住をはじめとして、やがて六十世帯ぐらいがここに住みついてしまったのである。
 その一人に、もと中等学校(今の高等学校に当るわけだが)の教師だったという六十ぐらいのジイサンがいた。いったいに、ここの乞食は栄養に事欠かないのか血色がよくて肉づきもよく、また気の向くままに田園の露天温泉に浴することもできるせいか、身ギレイで、戦争中の焼けだされた人々よりもよほどキチンとした風をしていた。彼らが乞食であることを見分けうるのは、バケツ
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