ら想をねった。
 終戦前、彼が渓流の岩にかくれて、ひそかに釣をたのしんでいたころ、いつも水鳥がさわいでいた。小鳥の多い渓流であった。
 酒を水鳥ともいうのである。これは洒落だ。酒という字を二つにわるとサンズイの水に鳥(酉)となる。金時のつくるドブロクはヘタクソであった。それでも酒の一種になればいい方で、甘酒にしかならないことが多い。金時にはマゴコロがあったが、向上心がなかったので、ドブロクの製法が上達する見込みはなかった。亮作は甘酒ができると、ガッカリしたが、自分で製法を覚えてきて、うまいドブロクを造ろうという考えにならなかった。毎日うまいドブロクをのむことも愉快であるかも知れないが、金時のヘタクソなドブロクや甘酒をのむ方が、満足であった。今度の瓶は何ができるかいな、と心待ちにする方が、いつもうまいドブロクをのむ単調さよりも好もしいようにも思う。金時は何をやってもゾンザイだったが、ゾンザイなところに生一本の人間味がにじみでている。亮作には人のつくったうまいドブロクよりも、金時のゾンザイにつくった出来そこないのドブロクの方が珍重されるのである。
「ウム。水鳥亭。これがいい」
 山の端に半
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