。しかるに家も畑も残ったのである。
 亮作は毎日街を歩きまわった。落付いて坐っていることができなかった。家と田畑と源泉の所有者だという実感が、孤独な部屋の物思いでは、とらえがたかったからである。ハッとして気がつくと、思わずポロポロと泣いたが、それが所有者の満足だとも思われない。そして急いで街へでる。日ごとに街を歩きまわった。
 単調な戦争中には見られなかった小さな変化が街の諸方に起っている。亮作はそれらをツブサに目にいれた。
 それは亮作とは何の関係もない変化であった。所有者になったという自覚を与えてくれるものは、ひとつもなかった。それでも、彼には、なつかしいのだ。小さな変化を見るたびに泌々《しみじみ》と目にしみる。心があたたかくなるのであった。
 彼はある晩、表札をださなければならないと思った。
 彼はその時まで表札をだしていなかった。手紙のくる筈がなかったし、もらいたい手紙はひとつもなかった。あらゆる過去に愛着を失っていた。梅村亮作は死んでいる。ひとつ、新しい別人の表札をだしてやろう、そう考えると、こみあげる愉快な思いにたまらなくなった。
 彼は窓を開け放して、澄んだ夜空を仰ぎなが
前へ 次へ
全64ページ中56ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング