たりへ手をやりもそもそ手探りしてのち、漸く其の襟を握つて首を絞めはじめたのである。麻油は驚いた。が、非力な伊豆をいつぺんに跳ね返すと、あべこべに伊豆の首筋を執《とら》へて有無を言はさず絞めつけた。伊豆はばたばた※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いて危く悶絶するところまでいつた。麻油が余りの呆気なさに呆れ乍ら手を離しても、暫くのうちは仰向けに倒れたまま尚も絞められてゐるやうに自分一人で※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いてゐたが、やうやう立ち上り、のろのろと向きを変へて、座敷の真ん中で四這ひになると、やがて白つぽい嘔吐《へど》を吐き下した。余程苦しいものと見え、数分の間犬の格巧をしたなりに身動きも出来ず、顔一面に泪を溢らせてゐた。
「なんだい、意気地なし。痴川が殺せないもんであたしを殺すことにしたの? 青瓢箪!」
 麻油はさう叫んで冷笑した。
 伊豆は返事をしなかつた。返事も出来ないほど苦しいらしく、尚も四這ひのまま首だけを擡げ、しよんぼりして※[#「口+穢のつくり」、第3水準1−15−21]《しやっく》りしてゐた。
「今にみんな殺してしまふ」
 伊豆は斯う言ひ残すと歩くにも困難の様子で戸口の方へふらついて行つたが、今度は下駄が探せないらしく、数分間ごそごそして漸く帰つて行つた。翌朝気付いてみると、麻油の草履や靴を正確に片方づつ溝へ投げ棄てて帰つたことが分つた。
 すると翌日の真昼間又伊豆がふらふらやつて来た。黙つて這入つてきてきよとんと麻油を視凝めてゐたが、今度は余所見を繕ひまるで何処かへ行つてしまふやうな風をし乍らふらふら近づいてきて、麻油の頸を手探りし、やうやつと襟を握つて絞めはじめた。さうして麻油の頬つぺたを舐めたのである。麻油は劇しく跳ね返した。麻油は怒つた。非力の伊豆を仰向けに返すと、又しても悶絶に近づくまで絞めつけた。伊豆は手足をじたばたさせて口中から白い泡を吹いてゐたが、麻油が手を離してからも暫くあつぷあつぷしてゐて、おもむろに四這ひになると、部屋の中央へ白い嘔吐《へど》を吐き下した。
 その日は直ぐ帰らうとはしなかつた。彼は愈々蒼白となつて、空気を舐めるやうな格巧をしながら胸苦しさを押へてゐるやうであつたが、やをら立ち上つて麻油の腰に縋りつくと、自分の方でずどんとぶつ倒れて、自分で麻油の下敷きになつた。そのくせ殆んど失心して身体全体を痙攣させ、今にも死ぬ人のやうにただ縋りついてゐたのであるが、それでも時々拳でもつて麻油の鳩尾のあたりを夢心持でこづいた。麻油は振り離して起き上つた。伊豆の奇妙な変態性欲が頷けたのである。麻油は失心したやうに目を閉ぢて動かない伊豆の姿を見下して、暫くの間ぢつと息を窺つてゐたが、やがて真白い肉付のいい二本の腕を忍ばすやうに静かに延すと、伊豆の頸を抑へて力強く絞めつけた。白い泡を吹いて、手足を殆んど力なげにじたばたさせて、併し懸命に※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]いてゐる伊豆の醜状に息を殺して見入り乍ら、麻油はふくよかな胸一杯にぴちぴちする緊張を覚え、春のやうに上気した軽快な満足を感じた。
 或日孤踏夫人は小笠原から伊豆と痴川の曲折をきき、たわいもなく談笑してゐたが、小笠原が帰るのを見送つてしまふと、急に肩の落ちるやうな、ほつとした眩暈《めまい》がした。夫人はむづかしい顔付をして、小波《さざなみ》のやうにちらめきはじめた混乱にぼんやりしながら部屋へ戻り、肘掛椅子に深く身を埋めたが、自分はいつたい今迄何事をそんなに緊張してゐたのかしらと思つた。さう言へば、自分は痴川の死を希つてゐるのだと、分りすぎるほど分りきつたことをふと思ひ付いたやうな気がした。本当に、分りすぎるほど分りきつたといふ気がしたのである。成程、少くとも痴川との手切れを欲してゐる以上は死ほど決定的な解決はない筈だから痴川の死を希つてゐるのに相違ない。……そして、この恐ろしい考へがはつきり分つてきても、我ながら可笑しいほど夫人は狼狽しなかつた。寧ろ不思議な落付と安らかな憩ひを感じた。そして、まるで蒼空でも仰ぐやうに、小笠原の顔を眼蓋一杯に泛べたのである。夫人はその顔へ向つて、さう、あたしもさうよ、貴方と同じだわ、といふ風に媚るやうに微笑してみせたいやうだつた。あの人はあんなに落付いた風をして、何の表情も感情も表はさずに淡々と談笑して帰つたけれど、あたしには分る、やはり痴川の死を希つてゐるのだと、夫人は頭がくらくらした。さうとすれば、もしさうだとすると、あの方もあたしを愛してゐるに違ひない。――そして、なんだか寒いほど引き緊つた気持の中で、一斉に開かうとする花束のやうな、夥しい微笑がふくらみ、やがて静かな泪となつて溢れ出すのを感じた。
 孤踏夫人の家を辞した小笠原は、彼も亦一時にほつと全身の弛
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