むやうな思ひがしたが、静かな足取で暫く歩いてゐるうちに、孤踏夫人が陥つたに相違ない前記の心理を眼に見るやうに思ひ泛べた。そして精巧な策略を仕遂げた詐欺師のやうな落付いた満足を覚えたが、ふと自分に返ると、苦りきつた気持で、頭の中の映像を大急ぎで一切合切掃除するやうにした。彼は急に自分が厭になつた。自分が邪魔でやりきれなくなつたのである。まるで煩《うるさ》い他人のやうに其処いらに煩い自分がふさがつてゐて、厭らしくてうんざりした。考へてみると、自分といふ奴は全く行き当りばつたりに思ひも寄らないことばかりして、伊豆に会へばそれとなく自分も痴川を憎んでゐるやうに暗示してしまつたり、孤踏夫人に会へば自分は夫人をさも思ひ込んでゐるやうに暗示したりしてしまふのであるが、現実の自分は、成程その思ひは幾分あるにしても、決してそれを一途に思ひ込んでゐるわけでない。それどころか、一途に思ひ込んだものといへば、実は何一つ無いのであつて、考へてみるに、現在ばかりの話でなく過去の一生に於ても、嘗て自分は一途に思ひ込んだといふことが何一としてない。求むるところにのみ人の生存の生存らしいところもあるとすれば、彼は手もなく無存在といふべきもので――別にさういふ理窟からではないが、とにかく小笠原は自分がないやうな拠りどころない困惑を感じた。そのくせ、靄のやうにとりとめもなく、それでゐて変に頑強な行為がそこにあつて、それが苛立たしいほど饒舌なものに感じられ、煩らはしくてならなかつた。とにかく酒でも呑もうと思つた。
 痴川はなんだか小笠原に悪いやうな気がしだした。をかしな話で、憎む理由はあつても悪るがることはない筈であるが、併し痴川はなんだか小笠原に悪いやうな気がした。若しも小笠原に友情を絶たれてしまふと、このさき生きてゆく世界がないやうな、大袈裟な心配が真に迫つて湧いてきて、始終小笠原の顔を見てゐないと不安で心細くて今にも消滅しさうな思ひがした。そのくせ会ふのも怖いやうであり変なやうでもあり足が進まないのであつた。ある晩のこと小笠原を訪ねるつもりで歩きだしたが、途中で気がひけて、ふいに思ひもよらず、これは一層会ひたくもない孤踏夫人を訪ねてしまふと、これは生憎不在であつた。方々彷徨つたあげくに、このまま帰宅してはどうにも引込みのつかない落漠たる思ひがたかまり、愈々小笠原を訪ねる決心を堅めると、こんどは決心の重圧に苦しめられて無性にやるせない癇癪を覚え、走るやうに夜道を歩いた。小笠原の住居はひつそりした高台のアパートで、もう辺りの寝静まつた時刻であるから、その街角へ現れて街燈の下へ辿りつくと、まるで自分が潤んだ灯に縋りついた守宮《やもり》ででもあるやうな頓狂な淋しさが湧いてきた。其処から仰ぐと三階の小笠原の部屋に明りが射してゐたので在宅と判じられたが、うつかりすると不在の孤踏夫人は此処にゐるかも知れないと思はれたので、ひどく二人に悪いやうな気のひけた思ひが乱れ、ぼんやりして街燈の下に佇んでゐたが、光のあるところでは何かの拍子に顔を見付けられても困るやうな不安もしてきて、今度はとある暗がりの土塀へ近寄つた。闇の中にぼんやりして三階の窓から洩れる薄い光芒を眺めてゐたら、やにはに水のやうな静かなものが流れてきて人を懐しむひたむきな心が油然と溢れてしまひ、なんだかわけが分らなくなつて二足三足するうちに、小つちやい門燈に寒々と照らし出された石の戸口をそつと押して身体が内側へ這入つてしまつた。石の廊下をコツコツ鳴らす跫音《あしおと》が際立たしく顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》へ飛び込んできて、その静かさがむやみに神経を刺戟したが、時々何処からとも知れない光が階段の途中あたりで顔に流れかかつてきて、だんだん気が遠くなるやうであつた。
 部屋の扉をノックして、「ゐるかい?……」と言ふと、胸がめきめきするほど不安になりだしたくせに、中から返事もない瞬間にもう戸を押してしまつてゐた。間の悪い光が痴川の顔へ鈍く流れてきたが、眼を丸くして奥を見ると、机に向つて何かしてゐた小笠原が唯一人ぼんやりして振向いてゐた。
 急に痴川はぼんやりした。ぼんやりして部屋へ這入つてゆくと、急に泪が溢れだした。それが途方もない塊のやうな泪で、喉がいつぺんに塞がつて、身体も折れ崩れるやうであつた。
「俺はなんて愚かな人間だか、自分でも呆れるばかりだ……」痴川は喉が通じるやうになると、がつかりして歎息した。彼はだんだん落付いてきた。さうすると、泪となつて自分自身が流れ去つてしまつたやうに、透明な肉体を感じてきた。「俺には自分のやることがまるで分つてゐないのだし、時々、これが自分だと思ふものが急に見当らなくなつたりして、本当にたよりなく寂しい思ひがする……」
 小笠原は静かに頷いて、憂鬱な顔をして
前へ 次へ
全9ページ中5ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
坂口 安吾 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング