小さな部屋
坂口安吾

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)扨《さ》て

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(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]

/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ごめん/\
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「扨《さ》て一人の男が浜で死んだ。ところで同じ時刻には一人の男が街角を曲つてゐた」――
 といふ、これに似通つた流行唄の文句があるのだが、韮山《にらやま》痴川は、白昼現にあの街角この街角を曲つてゐるに相違ない薄気味の悪い奴を時々考へてみると厭な気がした。自分も街角を曲る奴にならねばならんと思つた。
 韮山痴川は一種のディレッタントであつた。顔も胴体ももくもく脹らんでゐて、一見土左衛門を彷彿させた。近頃は相変らず丸々とむくんだなりに、生臭い疲労の翳がどことなく射しはじめたが、いはば疲れた土左衛門となつたのである。
「私に避け難い知り難い歎きがある。そのために私はお前に溺れてゐるが、お前に由つて救はれるとは思ひもよらぬ。苦痛を苦痛で紛らすやうに私はお前に縋るのだが、それも結局、お前と私の造り出す地獄の騒音によつて、古沼のやうな沈澱の底を探りたい念願に他ならぬ」――
 痴川はいつたい愚痴つぽいたちの男である。性来憂鬱を好み、日頃煩悶を口癖にして惓《う》むことを知らない。前記の言葉はその一例であるが、これは浅間麻油の聞き飽いた(莫迦の)一つ文句であつた。この言葉によれば、痴川はまるで麻油にとつて厳たる支配者の形に見えるのだが、事実は麻油に軽蔑されきつてゐた。麻油は痴川の情人でない。情人でないこともないが、麻油は出鱈目な女詩人で、痴川のほかに、その友人の伊豆ならびに小笠原とも公然関係を結んでゐた。
 痴川に麻油を独専する意欲はなかつた。併《しか》し女に軽蔑されることを嫌つた。惚れられてゐたかつたのだ。かういふ所に女に軽蔑された根拠もあつたのだし、それを避けやうとして殊更に泣き言めいて悩み悩みと言ひ慣はした理由もある。地獄の騒音の底で古沼の沈澱を探りたいなぞと勿体ぶつた言ひ草もくだらない独りよがりで、見掛倒しの痴川は始終古沼の底で足掻きのとれない憂鬱を舐めてゐた。探りたい段でなく、探りすぎて悩まされ通してゐた。
 痴川は憂鬱な内攻に堪へ難くなると、病身で鼠のやうに気の弱い伊豆のもとへ驀地《まっしぐら》に躍り込み、おつ被せるやうにして、「むむ、ああ、もう俺はあのけつたいな女詩人を見るのも厭になつた」痴川は顔を大形《おおぎょう》に顰めて、いきなり大がかりに胡坐《あぐら》を組み、さも苦しげに吐息を落すのであつた。「お前はあの女と結婚するのが丁度いいぜ。俺が一肌ぬぐが、お前はあの女に惚れ込んでゐるし……」
「俺は惚れてなんかゐないよ」と、伊豆は不興げに病弱な蒼白い顔を伏せた。痴川は急にわなわなと顫へだして頬の贅肉をひきつらせ、ちんちくりんな拳で伊豆の胸倉をこづいて、「お前といふ奴は、まるで、こん畜生め! 友達の心のこれつぱかしも分らねえ奴で……」それから後は唐突な慟哭になる。慣れてはゐるし呆気にとられるわけでもないが、どうすることも出来ないので、伊豆は薄い唇を兎も角微笑めく顫ひに紛らして、ねちねちした愚痴を一々頷くよりほかに仕方もなかつた。
 麻油は女詩人だといふが、詩の才能と縁のない呑気な女であつた。深刻な顔付をしたがらないたちで、時々放心に耽ると肉付のいい丸顔が白痴のものに見えた。内省とか羞恥とか、いはば道徳的観念とでも呼ばれるものに余程標準の狂つたところがあつて、突拍子もない表出には莫迦だか悧口だか一見見当もつかなかつた。ある時、これも内攻に草臥《くたび》れた痴川が孤独からの野獣の狂躁で脱出してきて、麻油を誘ひ伊豆を誘ひ小笠原を誘ひ、とある山底の湯宿へ遁走した。男達は複雑な心理錯綜と宿酔《ふつかよい》に腐蝕して日増に暗澹たる憂鬱を深めたのに、麻油一人は微塵も同化せずに至極のんびりしてゐた。男は連日早朝に目を覚ました。男は重苦しい宿酔に圧し潰される思ひで一時《いっとき》も早く部屋を脱けると冷酷な山間を葬列のやうに黙りこくつて彷徨ふのであるが、所在がなくてほろ苦くて、先登が不意に枯枝を殴り落すと、後の二人も真青な顔で無心に枯枝を叩き折つてゐた。ひろびろと見晴らしのいい曲路へ出ると急に自分の心を拾ひ上げたやうになるものだが、余りの広さに極度に視線を狼狽させた男達は、慌ただしく渺々《びょうびょう》たる山波を仰いで大いなる壮快を繕ひ乍ら、何ものとも知らぬものへちらめく呪ひを感じたり、谷底へ奇怪な戦慄を覚えたり、喚きたくなつたりした。
 漸く此の刻限となり男が山へ出払つてのち、毎
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