懐手をぶらぶらさせて、なんだか奇妙に落付き払つた風をし乍らもつそり突立つてゐて、小笠原の出てくるのを見ると、まづ真青な顔を出来るだけ豁達《かったつ》げに笑はせやうとしたのだが、「僕はこんど痴川を殺すよ」と言つた。
「うん、その話は痴川からきいてゐたが――」
小笠原はまるで欠伸《あくび》でもするやうな物憂い様子でぶつぶつ呟くやうに言ひすてたが、暫く無心に余所見《よそみ》に耽つてから漸くのこと首をめぐらして、今度は一層遣り切れない物憂さで、「ゆふべも痴川と呑んだんだが、あいつは君を実に気の毒な心神消耗者だとさう言つてゐたつけな……」それから丈の高い腰から上をぐんなり椅子へ凭せ、頭をがくんと反り返らせて、それつきり固着したやうに天井を視凝めてゐる。伊豆は自分の決意を全然黙殺しきつたやうな小笠原の態度にちらくらする反抗を覚えた。
「俺はあいつの※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]く様子が手にとるやうに見える。俺はあいつの首を絞めるつもりだが、あいつは血を吹いて醜くじたばたして……」
伊豆はそこまで言ひかけると咄嗟に自分もじたばた格巧をつくつたが、希代な興奮に堪へ難くなつて迸しるやうに笑ひだした。その笑ひは徒らにげたげたいふ地響に似た空虚な音だけで、伊豆はその一々の響毎に鳩尾《みぞおち》を圧しつけられる痛みを覚えたが、併しなほ恰も已に復讐し終へたやうな愉悦に陶酔したのである。笑ひ止んでふと気がつくと、小笠原は相も変らず頭をがくんと椅子へ凭せて天井を視凝めたまま、凡そ退屈しきつた苦々しい顔付で人もなげに放心してゐた。
「どれ……」急に小笠原は甚だ無関心に立ち上り、伊豆なぞ眼中にない態度で長々と背延びをしたが、「どれ、ぽつぽつ痴川のところへ出掛けやうかな……」さう呟いて洋服に着代へて出てきた。「今夜も呑む約束なんだ」さう言ひすてて自分はさつさと沓脱《くつぬぎ》へ降りて行つた。伊豆は実に物足りない暗い惨めな気持で小笠原の後につづいたが、戸外へ出ると急にもやもやした胸苦しさを覚え、溝へ蹲んで白い苦い液体を吐き出した。数分間苦悶した。小笠原は無論介抱もしなかつた。第一振向きもせずに、憂鬱至極な顔付で茫漠と暮れかかる冬空を眺め耽つてゐた。軈《やが》て伊豆が漸くに立ち上る気配を察しると、なほ振向いて確かめやうともせずに長足を延して悠然と歩きだしたが、青ざめきつた顰面《しかめつら》で伊豆がやうやう追ひつくと、急にぽつんと零《こぼ》すやうな冷淡さで、「君も行くかね?」「いや」伊豆はがくんと首を振つた。「今日は胸が苦しくてとても呑めない」「さう」小笠原は蔑むやうに頷いたが、「さう、かね。ぢや、さよなら」。其処はまだ別れる場所ではなかつたが、伊豆は斯う言はれたので咄嗟に歩速を緩めた。遣る瀬ない空虚を感じた。伊豆は力の尽き果てた様子で小笠原の後姿をぼんやり見送つてゐたが、軈てのことに我に返つて、不思議に自分はあの冷酷な小笠原を寧ろ一種の親しみをもつて見送らうとしてゐるのに気付いた。いはば小笠原を親愛な一味徒党のやうに思ひ込まうとするのである。その理由に就てはなぜか伊豆自身深く追求することを避けたがる様子であつたが、つまりは小笠原も痴川の死を欲しており、且又自分に痴川の殺害を実行させやうと企らんでゐる、といふ風に考へたかつたのであらう。だが、伊豆の推量は勿論当にならない。誰しも二人の敵を打つよりは一人味方に思ひ込む方が気が楽でゐられる。そして伊豆も現在自分の心底にこの傾向のあることを感じ、あまり諸事を掘り下げすぎて自分の馬脚を発見したくなかつたので、故意に全てを漠然の中に据ゑたまま、とにかく小笠原は自分の親愛な同志であるやうに感じた。伊豆は小笠原の暗示したところのものを万事深く呑み込んだといふ形に、ふむふむと大袈裟に頷き、快心の小皺を鼻に刻んで上機嫌に帰宅した。
小笠原は其の持ち前の物静かな足取で黄昏に泌り乍ら歩いてゐたが、やがて、伊豆の心に起つた全ての心理を隈なく想像することができた。彼は自分が殆んど悪魔の底意地の悪るさで痴川伊豆の葛藤を血みどろの終局へ追ひやらうとしてゐる冷酷な潜在意識を読んだ。併し驚きも周章《あわ》てもしなかつた。永遠に塗りつぶされた唯一色の暗夜を独り行くやうな劇しい屈託を感じたのである。全て波瀾曲折も無限の薄明にとざされて見え、止み難い退屈を驚かす何物も予想することができなかつた。彼は冷静な心で、恐らく自分は悪魔であるかも知れないと肯定し、そして洋々たる倦怠を覚えずにゐられなかつた。
麻油は伊豆をかなり厭がつてゐた。その伊豆がとある白昼麻油の家へ上り込んできて、懐手をして無表情な顔付で突立つてゐたが急に手を抜き出して其れをふらふら振り乍ら麻油にねちねちと抱きついて来たので、何をするかと思ふてゐると、先づ麻油の頸から胸のあ
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