つた。痴川は確かに呆れた。確かに見当がつかなくなつたのである。
伊豆が痴川を殺す気持になつたのは今に初まつたことでない。痴川は伊豆にとつては毒に満ちた靄であつた。いつたい痴川といふ人は見掛倒しの人ではあるが、見掛けは甚だ仰山な、その現れるや陰惨な翳によつて四囲を忽ち黄昏の中へ暗まし、その毒々しい体臭によつて相手の気持を仮借なく圧倒する底《てい》の我無者羅な人物であつた。身心共に疲れ果てた伊豆にとつては是程神経に絡みつく負担はないのであつて、初めは一種の畏怖と親しみであつたものが、逆に嵩じて、茫漠と眼界に拡ごり満ちる痴川の生存そのものを忌み呪ふ気持が伊豆の憔悴した孤独を饒舌なものにした。
伊豆はうつかり痴川に手紙を書きだしてしまつたのである。初めは何の気もなく近況を書き送るつもりで、「私は君の生活力に圧倒されて、斯うして独りでゐると尚のこと君を怖れ、怖れと共に限りなく憎みたくなるのであるが」――といふやうな書出しのものであつたが、書きだしてみると次第に鬱積したものが昂ぶつてきて混乱に陥り、結論だけが妙に歴々と一面にはびこつてきてもはや激情を抑へる術もなくなつたので、改めて次の意味を率直に、いきみ立つ胸を殺して書きだした。
「私は君を殺す。君が私に殺される幻想を恍惚として飽くなく貪るのがここ数年の私の生き甲斐であつた。君は地上の誰よりも狼狽して※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]《もが》くであらう。現に私の幻想の中で君は最も醜い姿で七転八倒してゐる。私はそれをやがて実際に見ることにならう。呵々」
其れをぶらぶらと懐手《ふところで》に抱へ乍ら、変に落ちついた蒼白い足どりで投函に行つた。末枯れた冬ではあつたが、慌ただしいどんよりした薄明の街であつた。その時彼は痴川殺害の事実に就ては実は殆んど考へてゐなかつた。ただ彼は此の手紙を受取つた痴川の狂暴な混乱を思ひ泛べるだけで満悦を感じてゐた。数日が流れた。無論返書は来なかつた。すると伊豆はふいに不安になりだした。手紙の効果に就てひどく疑ぐりだしたのである。若しや、あれを読んだ痴川が忽ち伊豆の内幕を見すかしたやうな憫笑を刻み例の毒々しい物腰で苦もなく黙殺し去つた場合を想像するに、体内に激烈な顛倒を感じるやうな苛立ちを覚えた。一週間ばかり劇しい不安と争つてゐたが、或る暮方何気ない足取でぶらりと出ると小笠原を訪れた。例の
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