小さな部屋
坂口安吾
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)扨《さ》て
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#「足へん+宛」、第3水準1−92−36]
/\:二倍の踊り字(「く」を縦に長くしたような形の繰り返し記号)
(例)ごめん/\
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「扨《さ》て一人の男が浜で死んだ。ところで同じ時刻には一人の男が街角を曲つてゐた」――
といふ、これに似通つた流行唄の文句があるのだが、韮山《にらやま》痴川は、白昼現にあの街角この街角を曲つてゐるに相違ない薄気味の悪い奴を時々考へてみると厭な気がした。自分も街角を曲る奴にならねばならんと思つた。
韮山痴川は一種のディレッタントであつた。顔も胴体ももくもく脹らんでゐて、一見土左衛門を彷彿させた。近頃は相変らず丸々とむくんだなりに、生臭い疲労の翳がどことなく射しはじめたが、いはば疲れた土左衛門となつたのである。
「私に避け難い知り難い歎きがある。そのために私はお前に溺れてゐるが、お前に由つて救はれるとは思ひもよらぬ。苦痛を苦痛で紛らすやうに私はお前に縋るのだが、それも結局、お前と私の造り出す地獄の騒音によつて、古沼のやうな沈澱の底を探りたい念願に他ならぬ」――
痴川はいつたい愚痴つぽいたちの男である。性来憂鬱を好み、日頃煩悶を口癖にして惓《う》むことを知らない。前記の言葉はその一例であるが、これは浅間麻油の聞き飽いた(莫迦の)一つ文句であつた。この言葉によれば、痴川はまるで麻油にとつて厳たる支配者の形に見えるのだが、事実は麻油に軽蔑されきつてゐた。麻油は痴川の情人でない。情人でないこともないが、麻油は出鱈目な女詩人で、痴川のほかに、その友人の伊豆ならびに小笠原とも公然関係を結んでゐた。
痴川に麻油を独専する意欲はなかつた。併《しか》し女に軽蔑されることを嫌つた。惚れられてゐたかつたのだ。かういふ所に女に軽蔑された根拠もあつたのだし、それを避けやうとして殊更に泣き言めいて悩み悩みと言ひ慣はした理由もある。地獄の騒音の底で古沼の沈澱を探りたいなぞと勿体ぶつた言ひ草もくだらない独りよがりで、見掛倒しの痴川は始終古沼の底で足掻きのとれない憂鬱を舐めてゐた。探りたい段でなく、探りすぎて悩まされ通して
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