ゐた。
痴川は憂鬱な内攻に堪へ難くなると、病身で鼠のやうに気の弱い伊豆のもとへ驀地《まっしぐら》に躍り込み、おつ被せるやうにして、「むむ、ああ、もう俺はあのけつたいな女詩人を見るのも厭になつた」痴川は顔を大形《おおぎょう》に顰めて、いきなり大がかりに胡坐《あぐら》を組み、さも苦しげに吐息を落すのであつた。「お前はあの女と結婚するのが丁度いいぜ。俺が一肌ぬぐが、お前はあの女に惚れ込んでゐるし……」
「俺は惚れてなんかゐないよ」と、伊豆は不興げに病弱な蒼白い顔を伏せた。痴川は急にわなわなと顫へだして頬の贅肉をひきつらせ、ちんちくりんな拳で伊豆の胸倉をこづいて、「お前といふ奴は、まるで、こん畜生め! 友達の心のこれつぱかしも分らねえ奴で……」それから後は唐突な慟哭になる。慣れてはゐるし呆気にとられるわけでもないが、どうすることも出来ないので、伊豆は薄い唇を兎も角微笑めく顫ひに紛らして、ねちねちした愚痴を一々頷くよりほかに仕方もなかつた。
麻油は女詩人だといふが、詩の才能と縁のない呑気な女であつた。深刻な顔付をしたがらないたちで、時々放心に耽ると肉付のいい丸顔が白痴のものに見えた。内省とか羞恥とか、いはば道徳的観念とでも呼ばれるものに余程標準の狂つたところがあつて、突拍子もない表出には莫迦だか悧口だか一見見当もつかなかつた。ある時、これも内攻に草臥《くたび》れた痴川が孤独からの野獣の狂躁で脱出してきて、麻油を誘ひ伊豆を誘ひ小笠原を誘ひ、とある山底の湯宿へ遁走した。男達は複雑な心理錯綜と宿酔《ふつかよい》に腐蝕して日増に暗澹たる憂鬱を深めたのに、麻油一人は微塵も同化せずに至極のんびりしてゐた。男は連日早朝に目を覚ました。男は重苦しい宿酔に圧し潰される思ひで一時《いっとき》も早く部屋を脱けると冷酷な山間を葬列のやうに黙りこくつて彷徨ふのであるが、所在がなくてほろ苦くて、先登が不意に枯枝を殴り落すと、後の二人も真青な顔で無心に枯枝を叩き折つてゐた。ひろびろと見晴らしのいい曲路へ出ると急に自分の心を拾ひ上げたやうになるものだが、余りの広さに極度に視線を狼狽させた男達は、慌ただしく渺々《びょうびょう》たる山波を仰いで大いなる壮快を繕ひ乍ら、何ものとも知らぬものへちらめく呪ひを感じたり、谷底へ奇怪な戦慄を覚えたり、喚きたくなつたりした。
漸く此の刻限となり男が山へ出払つてのち、毎
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