朝麻油は誰よりも遅れて目を覚ました。部屋に陰鬱な乱雑がねくたれてゐて悪どい空気がじつとり湧いてゐる中だのに、麻油は悠々と煙草をつけ、厚ぼつたい空気の澱みへ耳朶を押しつけるやうにしてうつらうつらと頬杖を突いてゐるのだが、まるで蒼空の下の壮快を味ふてゐる快適な姿であつた。男が山を降りてくると、麻油は急に唱ふやうな楽しさで秘密つぽく一人々々を掴まへ、「あたし、あんたが好き……」男は一人づつ怒つたやうな顔付をした。それには全然とりあはずに、ふいと麻油は顔の表情を失ふと横へそらして重たげな冬空を眺め、「あたしはあの空が好きだ」といふやうなポカンとした白痴の相に変つてしまふ。麻油は長々と湯につかり、まるでまるまると張りきつてゆく快い発育の音を感じるやうに、独りぽつちの広い湯槽に凭れて口をあんぐりあけ、鼻へ快適な小皺を寄せて動かずにゐる。
男達が何かしらの一座の気配で遣り切れない憂鬱にはまり込んだとき、麻油も血の気ない興ざめた顔でゐるので、矢張り此女でもさうかと思ふてゐると、それは一座とまるで違つた軌道でさうなつてゐるのであつて、急に顔をもたげて気がついて男の顔を一つづつ新発見のやうに見廻しはじめたりするので、男達は愕然として咄嗟にめくるめく狼狽のさなかで故里を思ひ出したりするのであつた。
麻油は二十二歳まで(男達は三十がらまりであつた)女王の気持でゐることが出来た。或日一行に伴はれて孤踏夫人なる女人のもとへ行つた。これは痴川の女であつて閨秀画家であるが、三十五で二十四五に受取れる神経質な美貌であつた。男達の憂鬱と同量の狂躁を帯びた華やかさで孤踏夫人は上品に話したり笑つたりした。その部屋の空気には霧雨のやうな花粉が流れてゐて、麻油にはそれが眼や足の裏に泌《し》みて仕様がなかつた。麻油はむつつりして黙り込んでゐたのである。
それから数日して痴川が麻油に会ふと、麻油は変な顔をして俯向き乍ら、「孤踏夫人て、あんた好き?……」又沈黙して今度は一層際立つた顔をしながら、「あんた、あの人と一緒に死ぬ気?……」痴川が呆れてゐると麻油は照れ隠しに青白く笑つたが又真面目になつて、「ああいふお上品な悧口な人が好き? なら仕方がないけど、でも、あんた、あたし嫌ひ? あたしを可愛がつて下さる? あたしだけ可愛がつて、ね……」さうして悄《しお》らしく首をあげたが、やがて痴川の眼を見入つて実に嫣然と笑
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