俯向いてしまつたが、一度心もち眼を上げて痴川の顔をぽかんと見てから、又ぐつたり顔を伏せ、組み合した膝の上で手の指を物憂げに動かせてゐたが、ぶつぶつ呟くやうに、
「俺達の複雑な生活では、最も人工的なものが本能であつたりしてゐる。斯ういふ吾々のこんぐらがつた生活で、自分を批判するくらゐ貧困なものはないのであつて、百の内省も一行の行為の前では零に等しい。文化の進歩は人間の精神生活に対しては解き難い神秘を与へたに過ぎないのであつて、結局文化それ自らの敗北を教へたに過ぎない。畢竟するに人間なるものは、その生活に於て先づ動物的であることを脱れがたいのだ。だいたい文化に毒された吾々がデリケートな文化生活の中から自分を探し出さうとするのが已に間違つてゐるのであつて、吾々は動物的な野性から文化を批判し、文化を縦横に蹂躙しながら柄に合つたものだけを身につけて育つやうにしなければならなかつたのだ……」
小笠原は顔を伏せてみたり背けたりしながら、眠むたげな単調な語勢でそんなことをぶつぶつ喋つてゐたが、すると痴川もぼんやり俯向いて、わけもなく一々頷いたりしながら、変に神妙に聞いてゐる風をしてゐた。その実はひどく退屈してゐたのだが、併しとにかく小笠原と対座してゐることだけで平和な心を感じた。
小笠原は痴川を家まで送つてきて、例の感情を泛べない冷めたい顔付で、「君は今悪い時季なのだ。春がきて、それに健康が良くなると、もつと皆んなうまくゆくやうになるのだ。身体を呉々も大切にしたまへ」と言つて静かに帰つて行つた。痴川は又もやぼんやりして、子供のやうに小笠原の言葉を聞いてゐたが、自分の部屋へ這入つてきて、自分は今小笠原と平和な面会を終へてきたのだといふことが分ると、心安らかな空虚を覚えた。痴川は和やかな感傷に酔ひ乍ら、白々と鈍く光る深夜の部屋に長い間佇んでゐた。
一日痴川が麻油を訪ねてゆくと、麻油は大変好機嫌で、痴川を大歓迎するやうにしたが、
「小笠原さんて、ひどい人ね――」
「なぜだ……」痴川はどぎまぎした。
麻油はいきなり哄笑を痴川の頬へ叩きつけて、
「あんた、怒つてゐるの? 口惜しがつてゐるの? あはゝゝゝ。小笠原さんと孤踏夫人て、ずゐ分ひどい人達ね……」
痴川はみるみる崩れるやうな、くしやくしやな泣き顔をしたが、急に物凄い見幕で怒りだして、
「莫迦野郎! お前なんぞに男の気持がわかる
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