重圧に苦しめられて無性にやるせない癇癪を覚え、走るやうに夜道を歩いた。小笠原の住居はひつそりした高台のアパートで、もう辺りの寝静まつた時刻であるから、その街角へ現れて街燈の下へ辿りつくと、まるで自分が潤んだ灯に縋りついた守宮《やもり》ででもあるやうな頓狂な淋しさが湧いてきた。其処から仰ぐと三階の小笠原の部屋に明りが射してゐたので在宅と判じられたが、うつかりすると不在の孤踏夫人は此処にゐるかも知れないと思はれたので、ひどく二人に悪いやうな気のひけた思ひが乱れ、ぼんやりして街燈の下に佇んでゐたが、光のあるところでは何かの拍子に顔を見付けられても困るやうな不安もしてきて、今度はとある暗がりの土塀へ近寄つた。闇の中にぼんやりして三階の窓から洩れる薄い光芒を眺めてゐたら、やにはに水のやうな静かなものが流れてきて人を懐しむひたむきな心が油然と溢れてしまひ、なんだかわけが分らなくなつて二足三足するうちに、小つちやい門燈に寒々と照らし出された石の戸口をそつと押して身体が内側へ這入つてしまつた。石の廊下をコツコツ鳴らす跫音《あしおと》が際立たしく顳※[#「需+頁」、第3水準1−94−6]《こめかみ》へ飛び込んできて、その静かさがむやみに神経を刺戟したが、時々何処からとも知れない光が階段の途中あたりで顔に流れかかつてきて、だんだん気が遠くなるやうであつた。
 部屋の扉をノックして、「ゐるかい?……」と言ふと、胸がめきめきするほど不安になりだしたくせに、中から返事もない瞬間にもう戸を押してしまつてゐた。間の悪い光が痴川の顔へ鈍く流れてきたが、眼を丸くして奥を見ると、机に向つて何かしてゐた小笠原が唯一人ぼんやりして振向いてゐた。
 急に痴川はぼんやりした。ぼんやりして部屋へ這入つてゆくと、急に泪が溢れだした。それが途方もない塊のやうな泪で、喉がいつぺんに塞がつて、身体も折れ崩れるやうであつた。
「俺はなんて愚かな人間だか、自分でも呆れるばかりだ……」痴川は喉が通じるやうになると、がつかりして歎息した。彼はだんだん落付いてきた。さうすると、泪となつて自分自身が流れ去つてしまつたやうに、透明な肉体を感じてきた。「俺には自分のやることがまるで分つてゐないのだし、時々、これが自分だと思ふものが急に見当らなくなつたりして、本当にたよりなく寂しい思ひがする……」
 小笠原は静かに頷いて、憂鬱な顔をして
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