むやうな思ひがしたが、静かな足取で暫く歩いてゐるうちに、孤踏夫人が陥つたに相違ない前記の心理を眼に見るやうに思ひ泛べた。そして精巧な策略を仕遂げた詐欺師のやうな落付いた満足を覚えたが、ふと自分に返ると、苦りきつた気持で、頭の中の映像を大急ぎで一切合切掃除するやうにした。彼は急に自分が厭になつた。自分が邪魔でやりきれなくなつたのである。まるで煩《うるさ》い他人のやうに其処いらに煩い自分がふさがつてゐて、厭らしくてうんざりした。考へてみると、自分といふ奴は全く行き当りばつたりに思ひも寄らないことばかりして、伊豆に会へばそれとなく自分も痴川を憎んでゐるやうに暗示してしまつたり、孤踏夫人に会へば自分は夫人をさも思ひ込んでゐるやうに暗示したりしてしまふのであるが、現実の自分は、成程その思ひは幾分あるにしても、決してそれを一途に思ひ込んでゐるわけでない。それどころか、一途に思ひ込んだものといへば、実は何一つ無いのであつて、考へてみるに、現在ばかりの話でなく過去の一生に於ても、嘗て自分は一途に思ひ込んだといふことが何一としてない。求むるところにのみ人の生存の生存らしいところもあるとすれば、彼は手もなく無存在といふべきもので――別にさういふ理窟からではないが、とにかく小笠原は自分がないやうな拠りどころない困惑を感じた。そのくせ、靄のやうにとりとめもなく、それでゐて変に頑強な行為がそこにあつて、それが苛立たしいほど饒舌なものに感じられ、煩らはしくてならなかつた。とにかく酒でも呑もうと思つた。
 痴川はなんだか小笠原に悪いやうな気がしだした。をかしな話で、憎む理由はあつても悪るがることはない筈であるが、併し痴川はなんだか小笠原に悪いやうな気がした。若しも小笠原に友情を絶たれてしまふと、このさき生きてゆく世界がないやうな、大袈裟な心配が真に迫つて湧いてきて、始終小笠原の顔を見てゐないと不安で心細くて今にも消滅しさうな思ひがした。そのくせ会ふのも怖いやうであり変なやうでもあり足が進まないのであつた。ある晩のこと小笠原を訪ねるつもりで歩きだしたが、途中で気がひけて、ふいに思ひもよらず、これは一層会ひたくもない孤踏夫人を訪ねてしまふと、これは生憎不在であつた。方々彷徨つたあげくに、このまま帰宅してはどうにも引込みのつかない落漠たる思ひがたかまり、愈々小笠原を訪ねる決心を堅めると、こんどは決心の
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